終戦記念日に、異動のご報告
短いですが、お盆休みを取れたので、ブログにも経過報告をします。ぼくは米国から2002年2月に帰国したので、11年間、熊大にはお世話になりました。異動先は、いろいろ考えていた中では、自分としても意外?な薬学部になりました。妻はもちろん熊大にいますし、ぼくの熊大の研究グループも熊大に残りましたので、熊大も客員教授として兼任していますし、くわみず病院の睡眠外来も週1回から月1回に減らしましたが継続しています。
名市大への赴任は、決まってからの日数が短く、4月最初からフルに講義・実習を担当し、それに加えて、研究室と住居(単身赴任ですが)の引っ越しとセットアップなど、本当に忙しかったです。特に、ぼくの担当は薬理学という薬学部生物系の主要科目で国家試験でも重要ですが、ぼく自身、もともと生化学・分子生物学分野出身ですから、講義の前に、まず自分が勉強する必要があり、7月末に前期が終わり、ようやくほっとしました。こちらは、あまり研究のことは書かないブログなので、研究室のことについては、研究室のHP(http://bit.ly/NCUnp)をご覧ください。
さて、ぼくの父は、8月15日を「敗戦記念日」と呼びます。父は、昭和2年生まれで終戦時は陸軍士官学校に在学中だったため、空襲などの怖さは知りません。その点では、名古屋市内に住んでいて、焼夷弾の中を逃げ回った経験のある母の方が、戦争の怖さを身を持って知っているようです。しかし、父は一番、仲の良かった兄を特攻隊で失くしています。その兄は海軍(予科練卒)だったので、有名な知覧(鹿児島市側の薩摩半島にある)ではなく、反対側の大隅半島にある鹿屋(かのや)の基地から飛び立ったそうです。父自身は、戦争が嫌いで、本当は陸士にも行きたくなかったそうで、負けたのだから、終戦ではなく敗戦なんだと言っていて、ぼくも、子どもの頃から、その考えに染まっているので、今日は敗戦の日だと考えています。熊本に来たからできた親孝行で、両親を知覧と鹿屋に連れて行きました。また、鹿屋の記念館に、兄(ぼくの伯父)の写真を送って展示をお願いしました。右がその写真ですが、父に、そして、ぼく自身につながる面影があります。
ぼくは、この4月に32年ぶりに名古屋に戻りましたが、実は、この夏休み、先日、熊本や東京に散らばっている家族と、妹の一家も一緒に集まって、何と!このメンバーとしては初めて、全員でカラオケに行きました(泊まったホテルのカラオケのできる部屋ということですが…)。そこで、何十年ぶりかわかりませんが、父の歌を久しぶりに聞きましたが、その中に、「同期の桜」がありました。
貴様と俺とは 同期の桜 同じ兵学校の 庭に咲く
咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散りましょう 国のため
この1番の歌詞は、父の鼻歌でよく知っていました。しかし、2番以後は、実は今回初めて聞きました。1番の歌詞は、まあ、戦争中の勇ましい軍歌だくらいに思っていたのですが、4番、5番の歌詞を聞くと、
・・・
あれほど誓った その日も待たず なぜに死んだか 散ったのか
・・・
貴様と俺とは 同期の桜 離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社 春の梢に 咲いて会おう
・・・
だったんですね。死んでもよいから頑張ろうという1番はわかりますが、4番では実はもう死んでいたんですね。戦争の真っただ中で、まだ負けていない時に、こんな歌が市民の間で歌われていて勝てるわけはなかったのは、多分わかっていたんでしょう。そもそも、必ず死んでしまうというようなこの歌詞は戦意昂揚に役立ったのでしょうか?逆に発禁になってもおかしくないような歌の気もしました。おりしも、閣僚の靖国参拝が話題になっていますが、靖国神社が、このような存在だったというのも、初めて実感できた気がします。
戦争が嫌いだったという、父の気持が今さらわかった、夏でした。
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Comments
火曜日、サッカー部の合宿の帰りに生徒と知覧の特攻平和会館を見学して来ました。
いま私が住んでるところは、旧陸軍の花房飛行場に隣接した通信教育隊の跡地なので、防火水槽など当時の遺物が残存しています。
花房は基本的に知覧への中継基地だったようですが、陸軍の健軍飛行場から、直接出撃された方も多いようです。
>早速のコメントありがとうございました(粂)
Posted by: 平井英徳(熊本北高校) | 2013.08.16 02:51 PM
粂、お疲れさま。粂のおじさんが特攻隊だった話は初めて知りました。子供が鹿児島にいることもあり、知覧には行きましたが、沢山の人が出撃したんだね。皆、知覧の記念館は是非、見てほしい物です。
Posted by: 佐藤尚 | 2013.08.16 03:12 PM