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脳神経科学の進歩は、何を変えるのか?

昨年6月、信州大学の「脳神経科学と社会」という題の講演で、『現代社会の中の「価値」を、脳科学が根本的に変えてしまう可能性は、ない。脳科学の進歩が私たちに伝えていることは、私たちが、私たち自身のことを、いかに、まだまだ知らないのかであり、その意味で、私たちは謙虚にならざるを得ないだろう。』と話しました。

この『現代社会の「価値」を、脳科学が根本的に変えてしまう可能性はない』とは、どういう意味かという質問を頂きました。実は、ちょうど、「脳神経科学の現在と将来」という題で小文を書きつつあるところなので、その目的もかねて、こちらに少しまとめてみます。

この時は、講演が一般市民(+学生)向けでしたから、専門家ではない方に伝えたいことを言いました。つまり、脳科学の進歩は、社会の中の価値観を変えてしまうのではないかという「漠然とした危惧」を持っている方がいますが、そんなことはありえないという意味です。たとえば、脳科学が進歩すると、「心を読むことができるようになる」「犯罪の原因が脳に求められるようになる」「脳の違いによって差別が広がるようになる」などのことを心配されている方もいます。しかし、これらの多くは誤解に基づく杞憂です。

1.「心」にはいろいろな意味があり、確かに「心」を読みとるような技術は進んでいます。自分が意識できないレベルの短時間だけ目から入った情報を視覚野から読み取ったり、情動的な反応を本人が意識できるレベルよりも感度よく読み取ったりすることも可能になっています。手を動かそうという指令を脳から取り出してロボットを動かすことも可能で、BMI技術の発展は急速です。しかし、たとえば目から入った情報を視覚野から読み取る技術がどんなに進歩したとしても、視覚情報から私たちが「何を思う」のかは、記憶と文脈に依存します。そのような、全てを読み取れるような技術ができることは、ほとんど不可能です。たとえば、動き方が完全に既知であるコンピューターを例に考えてみれば、そのコンピューターの全てのメモリーと、全てのCPUレジスターや、外部機器との通信状態がわかったとして、その情報から、そのコンピューターが現在、「何をしているのか」がわかるのでしょうか?それは不可能です。つまり、「心」というのは、ある意味で、内部だけに依存しているものではないので、「脳」だけ調べてもわからないことの方が多いのです。別の講演で、「心」は、環境にあるとお話したことにつながります。

2.犯罪の取り扱いについても、最近の脳科学者の中には、『「私」ではなく「私の脳」が○○をした』という表現を使う人がいるので、漠然と心配する人がいると思います。しかし、これは私は大変嫌いな表現で、『「私」ではなく「私の手」が行った(から、「私」の責任ではない)』という言説が変なのと同じくらい変な表現です。また、脳科学が進歩すると「自由意志」がなくなり、「意図的な犯罪」は存在しないので、「犯人」のせいではなくなる、という言い方をする人もいますが、これも、そもそも言葉の表現、あるいはカテゴリーレベルの端的な間違いです。このあたりは法律家の中では、きちんと議論されていて、脳科学手法による影響はあるとしても、特に何かが根本的に変わるわけではないと考えています。また、嘘発見器の発展の危惧を心配する人もいます。しかし、嘘発見器も、脳科学が進歩する前から使われていますし、脳科学を使ったものの方が、従来のものより精度はよいとしても、何かを根本的に変えることはありません。また、嘘も1.に書いた意味で、文脈依存性であることは強調しておく必要があります。

3.差別についても、たとえば、男性の脳と女性の脳に脳科学ではこんな違いがある、ということがわかったとしても、『「だから」男性はこうで女性はこうなんだ』となるわけでもなく、ましてや、『「だから」男性はこう「すべき」、女性はこう「すべき」』だという結論が導かれるわけではないことは自明です。それは社会が決めることだからです。脳科学ができることは、従来知られていた(あるいは知られていなかった)男女の違いの生物学的な(つまり、あくまで価値を内包しない)事実を明かすだけです。差別を作りだしたり、差別をなくしたりしようとする、人間の営みに、脳科学の進歩が科学的な助言を与えることはあっても、価値そのもののあり方を変えることはありません。

ここまでで強調したいことは、社会の中の「価値」というのは、社会的に作り出されたものであり、科学は、基本的には「価値」そのものとは無関係だということです。(ただし、この部分は価値や規範の自然化という哲学的な問題とも関与しますが)


もう一つ、この講演では言いませんでしたが、上述のようなことではなく、もっともっと根本的な面で、「心」に対する見方や人間観が、脳科学が進歩したことで変わってしまうと考えている人がいます。実は、ぼく自身もそうでした。この点について、ややこしいのですが、以下のように、現在は考えています。

4.変わらないもの:「心」や「自己」のあり方について、形而上学的に、非常に長い間、議論をされてきました。その中で、論理学的に考えて、乱暴な表現ですが、「私」という言葉は概念的には→素朴な概念は、定義できないというのが一つの結論だと思います。それをもっとも明晰に書いたのは、私の知る範囲ではヴィトゲンシュタインですが(追記2)、たとえばお釈迦様も、悟りの境地に達した時には、それをわかっていたのでしょうし、ギリシアの時代から哲学者の中には、そのように考えていた人も多いのでしょう。「私」は単に「現象学的な自己」として扱われるようになってきて、哲学者の中では、その存在論の議論は続いてはいても、一元論的な見方が主流と思われます。たとえば一元論的な考え方の中では、「自由」の存在する部分は限られます。その考え方と、最近の脳科学者が脳の中を探しても「私(=自分)」が見つからないと言っていることは根本的に同じです。いくら見つからなくても、主観的な私の存在は最後まで否定できないですし、脳科学が何かを変えることはないでしょう。つまり、脳科学の進歩は、形而上学的な議論には、あまり寄与する部分はないということです。

5.変わるもの:では、悟りを開いていない人、普段から特に哲学的な思考をする必要性のない一般の人にとってはどうか?一般社会は、素朴心理学と呼ばれる「素朴な人間観」に基づいて構築されています。デカルト的二元論と呼んでも良いでしょう。そして、教会の神を否定し、無神論・無宗教的な価値観が社会の基盤になる中で、「心」の豊かさが強調され、「私」による「自己決定」が尊重されるようになっています。一方で、現代社会では、科学が非常に重要な役割を果たしていて、哲学的に「心」がどのように議論されているのかについて興味を持たない人たちも、「脳」の研究には飛びつきます。TV番組には毎日のように脳学者が出ています。ぼく自身も、睡眠の講演をする時に、脳との関係で話した方が興味を持って頂けます。その脳科学が、素朴心理学的な人間観と異なることを発信し始めたら、一般社会の中にも、それが広がってくる可能性はあります。その場合には、最初に、ぼくが書いたこととは全く逆に、『現代社会の中の価値観が根本的』に変わる可能性はあります。ただし、それは脳科学の「進歩」によるものというよりは、脳科学による心の見方の「流布」によってということです。また、たとえ、『自分の中に、素朴な形での「心」や「私」はいないのだ』と、ほとんどの人が理性的に理解したとしても、実際の社会のあり方は、今のままで、大きくは変わらないだろうとも考えられます。なぜなら、素朴心理学的な心があると考えた方が、社会構築がうまくいくからです。

ぼくは、上の4.と5.で、「哲学の専門家と、一般社会」という対比をしましたが、大澤真幸は「自由の条件」という本の中で、これを「形而上学的・存在論的な人間観と、社会哲学・社会理論的な人間観との対立」と表現しています。

ぼく自身も、正直に書けば、まだまだ、形而上学的な人間観を完全に理解してもいませんし、このようなことを考え始めたのも、睡眠の研究を始めてからですから、まだ10年程度です。それまでは、素朴心理学的な見方でしか、人間を見ていませんでした。ただ、自分が学んできた過程を振り返って、現在の脳科学ブームを見ていると、1.2.3.に書いたレベルのことについての啓発を進めるとともに、4.5.の面でも、脳科学の専門家が、一定の責任を果たす必要があると考え始めています。というのは、脳科学的な人間観は、実証主義的であり、「存在論的人間観」に親和性が高いと思うからです。

また、哲学者の中にも、脳科学的な知見を取り入れながら、「自由」や「私」を、より自然化して考えて行きたいと模索している人たちがいます。ぼく自身は、現在はそのような視点から学びたいです。その意味で、脳神経倫理学~ニューロエシックスには、倫理学の自然化なども射程に入れるべきでしょう。


#追記:書いて公開した直後に、既に後悔していますが、上述の形而上学的人間観の理解は、あくまで、ぼく自身が今の段階で学んだレベルまでということです。多分、まともな哲学者の方からは、何と幼稚なと言われると思いますが、自然科学者がパートタイムで学べるレベルということで、勘弁を。

#追記2:自分=私の持つ「思考」を、論理的につきつめて考えていくと、素朴な形の「私」はいないという結論になる。「今日の皮相な心理学が考えているような魂~主体、等~などありはしないことを示している。というのも、合成された魂は、もはや魂ではないからである。」(論理哲学論考5.5421)どの時点で、どのような形で、「実体」として存在し得るかを、つきつめて考えると、さまざまな矛盾に突き当たります。「我思う、故に我あり」で、思考を打ち切ってしまうことでしか、「我」は存在できないと思われます。

#追記3:では、どのように考えるとわかりやすいか?主体としての「私」ではなく、「思考」も「感情」も「記憶」も、ばらばらに存在していると考えるとわかりやすいです。脳の中の、こびとさんたちが、多数決で、「私の体」の動かし方の決定権を持っている。そのうち何人かが、お亡くなりになっても、多数決ですから、体は動き続けます。「私」は一人だと感じる部分が、誤解といえるのでしょう。たとえば、「理性的な私」と「感情的な私」が、それをまとめる「超越的な私」の下にいるというよりは、そのような「私」はいなくて、その時に勝っている方が「今の私」ということです。

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