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代替医療とニセ科学

しばらく前に書いて放置されていたのですが、代替医療「被害」が報道されているので、公開することにしました。ホメオパシーを信奉する助産師さんが、通常、全ての新生児に与えられているビタミンK投与を行わず、脳出血で新生児が死亡したという事件です。

ビタミンK不投与で乳児死亡…母親が助産師提訴

日本も代替医療を進めようという動きがあり、そこに「ホメオパシー」まで出てきたため話題になっています。「自然なことが良い(人工的なものは悪い)」というのは理解できる感情ですが、ビタミンKの投与をしないで「自然に亡くなっていた赤ちゃんの数」のことを知らないと、こんなことになります。どんな代替医療者であれ、科学的に正しい部分を、「科学として尊重」しなければダメです。もし、「自然ではないものを与えるより、リスクを負う方が『良い』」と考えて行った行為なら、インフォームド・コンセントが必要でした。その場合、両親も納得してということになので、少なくとも「民事」訴訟にはならなかったでしょう。なお、ビタミンKを与えられることが、子どもの権利だと考えれば、社会の側が両親を訴えるべき(刑事訴訟)という問題は残ります。これはエホバの証人の両親が、子どもに輸血をしなかったことで訴えられた裁判と同じ議論です。なお「ホメオパシー」信奉者でも、ビタミンK投与や、ワクチンを拒否しない人の方が多いようです。同様に、エホバの証人も、輸血に対して、さまざまに異なったレベルの対応をします。少なくとも、私の知り合いのエホバの証人の医師は、必要な時に自分の患者には輸血を行うと言ってました。

さて、代替医療には、効果の医学(科学)的な検証レベルから、1.効果がある、2.効果はありそう(証明はされていない)、3.効果がなさそう、4.効果がない/科学者が最初からニセ科学だと考えている、まで、いろいろあります。この中で、特に、3.4.の効果がなさそう/ないけれど、人気があるものについての注意点を2つ、書いてみます。

まず、実際は効果がないが、効果があるように感じてしまう例です。「奇跡の勘違い」とでも呼びましょうか?
「科学と神秘のあいだ」でも感じましたが、神秘とか奇跡とか呼びたくなるような経験をすると、とても強い印象が残ります。その意味で、『お医者さん』は、「奇跡」をもっともたくさん作り出している職種です。まあ、スピリチュアル・カウンセラーには負けるかもですが(笑)。先日も、同僚の医師が、「○○さんは、脳出血を起こして3日間意識がなかったけど、今は何の後遺症もないんだ。ホント奇跡的だよね。」と言ってました。ぼくは、なるべく「奇跡」という言葉は避けていますが、日常会話で、こんな話はよくあるでしょう。でも、脳出血患者をたくさん診ている専門医なら、このような患者さんを毎年10人以上診ているかもしれません。それでも、3日間意識がない9割以上の患者さんが、そのまま亡くなるならば、数%に入ったことは「奇跡的」にも思えるでしょう。そもそも、奇跡が、「確率が低いことが起きる」ことであれば、「奇跡」と呼ぶことは「正しい」。「奇跡的」と表現することは、日常会話としては何の問題もありませんが、「奇跡的」なことが起きたのだから、何らかの「原因があるはずだ」と思い始めると、妙なことになります。たとえば、この方の入院中、家族全員が「イワシの頭にお祈りをささげていた」とします。すると、この「奇跡」は、「お祈りのために起きた」と思いたくなる。それが人間が共通して持つ性質ですね。もちろん、今時、「イワシの頭」を信じるとは思いません。でも、「ホメオパシー」のレメディを、その患者さんの口に毎日垂らしてあげていて、4日目にいきなり意識を取り戻したら、「ホメオパシー」のおかげだって、思いたくなるものです。ある所で火事が起きて、百人以上が亡くなった中で「奇跡的に助かった5人」が、共通点を見つけようと話をしたら、全員が血液型がA型だったので、「A型の人は注意深いから助かった」か、もしかしたら「A型の人だけが気がつきやすい特殊な臭いがしたんじゃないか?」とか、科学的に考えたらトンでも系の議論がすぐ噴出します。でも、「真実」は、この5人は「クメ教を信じていた」から助かったんです(笑)。こういう文脈では「事実」ではなく「真実」という言葉を使うのがミソですね。ダイエット広告の使用前・使用後と同じで、印象に残る例が一つでもあれば、「風が吹けば桶屋が儲かる」式の因果関係でも、効果がある、と信じてしまうのが、科学的な見方とは異なる、人間的な見方です。

このタイプの「勘違い」に似ていますが、実は効果があることが元になって、解釈が変わったものもあります。「事実の勘違い」と呼べるかもしれません。ホメパシーには詳しくないのですが、歴史的には、毒物を薄めて飲んだことが元ですから、それなら最初の経験では実際に(何らかの)効果があったと思われます。だって多くの薬はもともと毒です。それが、1分子も入らないくらい薄めても効果があるということになったので、科学者からはニセ科学扱いされるわけです。つまり、多分、最初は本当に効果があったものが、プラセボ効果のみになり、上述の「奇跡の効果」によって、すたれないまま存続してきたということでしょう。似たような話が「飲尿療法」にもあるようです。伝え聞きですが、ペニシリンが開発されたのは第二次世界大戦の頃で、ペニシリンはとても貴重でした。それで化膿がひどい患者でも1回分しか与えられなかったので、自分の尿を集めて、また飲んだそうです。ペニシリンは未変化体のまま、半分以上が尿に排泄されるので、尿を飲めば効果が増強して助かる人も増えたと推測されます。このような「事実」のエピソードが、「尿は身体によい」という妙な解釈につながった可能性はあるでしょう。実際、尿療法は最近では癌患者さんが試されていることが多いのですが、抗がん剤の中でも、シスプラチンなど腎排泄系のものを使っていれば、効果がより強くなる可能性はあります。ただ、それが「良いこと」ではなくて、量を増やすだけなら、わざわざ尿を飲まなくても、注射や内服の量を増やせば良いわけです。通常は、副作用が出ないレベルで最大量を使うので、尿で量を増やせば副作用の方がでる可能性も高くなります。だから、尿療法をしたい患者さんは主治医にも伝えて欲しいのですが、多くの場合、主治医には内緒でされているんですよね。

このように、それがなぜ良いと言われるようになったのか元をたどると、根拠は事実だったけれど、解釈の段階で妙になってしまったこともありそうです。口蹄疫にホメオパシーが効果があったという例も見てみましたが、レメディのBORAXってホウ酸ですから、ホウ酸入りの水で口蹄疫にかかった牛のお尻を消毒するのは、理にかなっています。とはいえ、一分子も入らないくらい薄めているのなら、ボラックスでもボトックスでも同じでしょう(笑)。でも、もしかしたら、その農場でBORAXのレメディを作る時に希釈倍率を間違えて、実際に効果があるレベルの「ホウ酸」が入っていたのかもしれませんし、単に水で洗っただけでも、何もしないより、ましだったかもしれません。いずれにせよ、最初に書いた「奇跡の勘違い」と同じで、解釈の部分での間違いなのでしょう。そもそも、このような災害時などの一回だけの経験は再現も検証も難しい、つまり科学の土俵に乗りにくいもので、まさに一人の人の人生と同じです。人生は「奇跡」の連続ですから、印象に残るエピソードとして、ホメオパシーを「信じる」人の間では語り継がれているのでしょう。

最後に、代替医療の是非を尋ねられることは多いのですが、医学的(科学的)に正しい・正しくないは、比較的クリアにお答えできますが、医療行為として良い・良くないは、「価値観」の問題になるので、簡単には答えられないことが、ほとんどです。上に書いた分類で4.のニセ科学だとみなされているものについては、医師としてはお勧めしないと言えますが、3.のレベルになると、「試してみて良いでしょうか?」と問われれば、「どうぞ」としか言えないということもあるということです。


余談ですが、早川由紀夫さんの「ニセ科学を批判すること」の中で、「信じる」ことを否定することはできない、という意見を読みました。これは私の考えですが、「水からの伝言」を信じた人の多くは、単に科学的な考え方の基礎を知らなかったり、深く考えなかっただけで、「ニセ科学」批判をしている人たちの多くは、そのレベルの人に対して呼びかけたいと思っているのです。ですから、田崎晴明さんの「水からの伝言」を信じないでください、も、「水からの伝言が科学的に正しいものだと考えないで下さい」の意味だと思います。

以下はさらに余談の拡張ですが、信じることの「自由」は、深く考えると、非常に難しい問題です。私は、議論の中では、「正しい」と考える、「良い」と思う、という表現を使います。たとえばホメオパシーの「効果の有無」については、科学(医学)的には効果がないと考えるのが正しいと話します。そして、少なくとも、なぜ自分がそれを「正しい」と考えるのかを理解して欲しいと考えます。その上で、相手が「現代の科学の方法論では証明できないような何かがまだあるに違いないから、それでも私はホメオパシーを信じる」のなら、それ以上議論しません。しかし、「科学」そのものの方法論や考え方の基盤を共有できない場合は、相手が信じることを、そのまま受け入れることはできないかなと思います。

たとえば、上述の「水からの伝言」も、現代科学的には「正しくない」ことだと理解していて、「宗教」として信じているのなら、「信じる」ことには、もちろん問題ないでしょう。しかし、もし宗教として信じているのなら、特定の宗教を教えることになるので、たとえ「道徳」の時間でも、学校で教えることには問題があります。なお、明記しておきますが、早川さんが道徳の時間に教えて良いと書いているわけでありません。では、宗教でないのなら、どうなのか?逆に、どんな宗教でも宗教ならば信じるのは「自由」なのか?という問題にも立ち入る必要を感じます。そもそも教育というのは、ある一定の「価値観」を刷り込んでいく面を持つわけで、その中で、あるものを「良い」とみなすかどうかも、当然、含まれます。科学的に「正しい」考え方をすることが、一定レベル「良い」というのが、多分、今の教育の中にあるのではないかと思います。私は医師ですから医療界にいますが、医療界でも、上に書いたように「医学的に正しい」が「医療的にも良い」と、一定の相関を持ちますが、例外はいっぱいあります。どのあたりまでを例外と考えるかとか、結局、バランスの問題なのでしょう。

早川さんが、別の文章の中で教育の中で「人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める」ことの重要さを指摘しています。同感です。早川さんは地質学者としての知識・経験から、そう考えているのかもしれませんし、私は生物学者なので生命現象の中から、そう感じます。ただ、畏敬の念を持ちながらも、迷信や場合によると詐欺を見極められるような教育や啓発活動を進めて行く必要性も当然あると考えています。

あと、ニセ科学批判は、「科学(学問)」ではなく、「活動」ですね。「学問」なら、間違っていると一回言えばおしまいのはずですから。ある人が、こんなことを書いていました。

> 『死体の山』が出来るのを防ぐのが『運動』で、『死体の山』の「原因」や
> 「解釈」をあとから説明、理論化するのが『学問』なのか?

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Comments

<<<助産院は危険です>>>

http://www.mhlw.go.jp/shingi/2005/09/images/s0905-7f1.gif

50年前、分娩場所が助産所や自宅から、病院や産婦人科医院(診療所)に代わり、母体死亡率が激減してます。

半世紀前に戻るのか????

Posted by: beauty | 2010.08.11 at 07:36 PM

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