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書評:リハビリの夜 熊谷晋一郎

(生協ではなく)医学書院の白石さんが手がける、珠玉の本がいっぱいの「ケアをひらく」シリーズの新刊です。

リハビリの夜 熊谷晋一郎

著者の熊谷晋一郎さんは、脳性麻痺の障害を持ち車椅子生活ですが、東大医学部を卒業して小児科医となった方です。この本は、自分の「自由にならない」身体との関わりの中で、彼が見つけてきた、自分と身体、他者(と、その身体)の関係性について、ユニークな視点から「解析」した本だと思います。(やや強引な、ひどい、まとめ方ですが・・・)

昨年、彩屋さんと彼が共著で書いた「ゆっくり丁寧につながりたい」と同じように、当事者が内部から見た視点で書かれているので、「そうか。そう感じるのか。そんな風に見ているのか。」という面白さもたくさんあります。でも、「(健常者や介助者って)そういう目で見られているのか!」という記述は、こちらのことを言われているわけですから、「ごめんなさい、わかってなかったよ。」という後悔・謝罪の念も持たざるをえず、単に面白かったですませられない、複雑な読後感でした。

特に、最終章を読んでいたら、(逆ギレして)腹立たしくさえなってきました。熊谷くん、君はぼくより15歳も若い癖に、そんな勝手にぼくより先に悟ったらダメだよ。ちょっと待ってくれ。君に置いてかれたら、ぼくは、どうしたらいいんだ?(笑)それに、何、この表現のすごさ。まだこんな老練(?)な表現使っちゃダメだよ。もうちょっと未熟な部分があった方が、読む方も気が楽だよ・・・でしょうか。さらに、こちらの心情を読み切ったような「あとがき」に至っては、絶望的です(大笑い)。(なお、ぼくも四十肩を三十代で経験してますから、それを障害のせいにしなくても、大丈夫ですから。)

すいません。こんな気安い文体で書いているのは、熊谷さんとは昨年2回ほどお話する機会があり、メールでも意見を交換できたりしたし、何よりも大学の「後輩」なので、「生意気なやつ」呼ばわりする特権があると、勝手に思っているからです。しかし、その特権を使うのも、これが最初で最後でしょう。

もう少しまともに書くと、最終第6章で、彼は、「隙間」というキーワードを用いて、自分と身体、自分と他者の関係を書いているのですが、それを、「自由は隙間に存在する」などと言われてしまうと、膝を打って首肯するを通り越して、参ったと言いたくなる・・・やっぱり全然、まともな書評になってませんね・・・

というわけで、この本は、ぼくにとっては単に面白いからお薦めするという段階をはるかに通り越していて、感想もうまくまとめられない本でした。

なお、脳性麻痺の人がどのように障害を乗り越えたのかの参考にしようと思って読んだら、あまり役に立たなかったと、ある人が感想に書いていました。確かに、直接すぐに役に立つ情報は少ないかもしれませんが、心と身体の関係にまで掘り下げて、「不自由」さを意味的に乗り越えようとするためには、物理的にも?役に立つと思います。

# と、ここまでお正月休みに一気に書いたのに、微修正では公開できないまま・・・没原稿になりつつありましたが、何も書かないよりは、ましだし、このブログの読者数は少ないので、まあ、いいか・・・

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Comments

すっかり、ご無沙汰してしまいました。
書きたいと思っていたことが、うまく書けないまま、ずるずると時間が経ってしまい、すいません。本当は、「敗北の官能」ということについて書きたかったのだけど、それなりの程度でも理解できているのかどうか自信がないし、どうもうまく書けませんでした。排泄や性的なことを、自分自身の問題として公に話題にすることは、とても難しい。熊谷さんの場合、そうせざるを得なかったろうことは理解できるけれど、それでも、本として出版することには、やはり抵抗があったのではないかしらと思います。だから、読者側も本当は一歩吹っ切って、感想を書かないといけないと伝わらないと思います。でも、それは難しかったのかな・・・また、お目にかかってお話できることを楽しみにしています。

Posted by: オーナー | 2010.02.13 10:26 PM

粂さま、熊谷です。

本を読んでくださって、そして、書評を書いてくださって、本当にありがとうございます。

昨日この書評がアップされていることに気づいて、何度も読み返しました。ちょうど、「あとがき」に書いたエピソードと同じような、ありがたさを感じました。誤解を恐れずに言えば、「見捨てられていない」という、じんわりとした感覚です。

排泄や性的なことを書くにあたっては、書くか書かないかというところでは迷いがなかったのですが、どのように描くか、についてはとても迷いました。
誰に向けて書くのか、何のために書くのか、といいうところも、最後まで難しかったです。

差別や抑圧を受けて来たことを、社会に対して告発するというときに、自らに胚胎した被虐的な欲望をカムアウトすることは、端的に「戦略ミス」とみなされやすいかと思います。
そのため、運動家たちは、当事者の幾人かが内に秘めたそういった欲望を、PCコードに反するものとして、タブーにしてきた。
もしくは、「われわれ」を抑圧する権力によって「胚胎させられてしまった」というような言葉(本書ではその語り口を、「抑圧解放図式」と表現しました)で、裁いてきてしまったように思います。

でも、たとえそれが権力によって胚胎させられたものだということが事実だとしても、それと同時に、一度胚胎した欲望がそうやすやすと上書きできないということもまた、事実だと思います。
そういう意味での、「可塑性」について、社会構築主義の人たちがうまく語れるようになれば、もっと現実的な言葉になるだろうし、もっと鋭い社会批判になりうるだろうにと思って、この本を書きました。

まだうまく書けていないところや、あざとい表現でお茶を濁しているところが多々ある、未熟なテキストではありますが、多くの人の感想を聞いてみたいと思っています。

Posted by: 熊谷晋一郎 | 2010.02.14 01:29 AM

熊谷さん、早速の返信をありがとうございます。
見捨てられてなくて、ほっとしたのは、こちらの方です。

ぼくはテキストがうまく理解できない時に英語にしてみるのですが、「まなざし・まなざされる」や「ほどき・ひろいあう」は、英訳が難しいですね。「まなざす」は、look, see ではなく、observe に近いと最初思ったのですが、observe は、実は、柔らかい意味も込められます。そう考えて、初めて「まなざす」には、介入するという意味が内包されていることに気がつき、さらに「まなざす」ことには、「見る」必要さえないんだということに気がつきました。(愚鈍で恥ずかしい)examine, investigate ・・・何が良いでしょうか?

また、意志通りに動かない身体だからこそ、「熊谷さんの身体」と「熊谷さん」の間に、明らかな二重構造ができると思いますが、まなざしている側が、その境界を意識しようとすれば、まなざしている側にも、その境界のあいまい化や拡張化が伝わるという救いがあると感じました。これは、たとえば、綾屋さんの、思考がまとまらないという状態を想像した時に、自分の意識(あるいは意識下の世界の方がよいかな)の広がりを、想像できた時と似ています。

権力はそれを意識した瞬間に自分自身も権力構造の一部になっていると、フーコーが言ったそうですが、規範からの逸脱のもたらす快感は、規範がなければ存在しないですね。不自由のないところに自由が存在しないのと同じ。マジョリティは、端的にその存在が規範であり権力と言っても良いでしょうか?川口さんとの対談の中で、おしゃってましたが、お二人ともほどけていない部分があって、またマジョリティに属している部分もあるからこそ、部分的な逸脱が「敗北の官能」になるのかもしれないと思います。あ、こういう表現もPCコード違反だと批判されるかもしれませんね。

Posted by: オーナー | 2010.02.16 12:40 PM

 粂さま、お返事をありがとうございます。

> 「まなざす」には、介入するという意味が内包されていることに気がつき、さらに「まなざす」ことには、「見る」必要さえないんだということに気がつきました。

 あの本の「まなざす」を英語にすると何になるかは、考えていませんでした。そもそも私が、英語のニュアンスについて詳しくないために、これ、という提案も覚束ないのですが、たしかに、「介入」の要素と、「まなざされる相手を、領有できない他者として見ていない」という要素の二つが伝えたいポイントでした。
 ある特定の規範的な評価基準で、相手を「裁く」、あるいは「監視する」という感じですね。超越的な視座でもって監視する、というニュアンスだから、supervise、でしょうか…自信ありません。

> 意志通りに動かない身体だからこそ、「熊谷さんの身体」と「熊谷さん」の間に、明らかな二重構造ができると思いますが、まなざしている側が、その境界を意識しようとすれば、まなざしている側にも、その境界のあいまい化や拡張化が伝わるという救いがあると感じました。

 そのように読んでいただけると、とても嬉しいです。読者のうちにある二重構造や境界の存在が、この本を読むことによって顕在化させられたなら、本を書いた目的のほとんどは達成されたように感じます。

 自らの身体の、制御≒所有しきれない他者性に照準することは、立岩さんの倫理学にも通じる部分だろうと個人的には考えていますが、この本ではそのことを、身体的な実感の次元で書こうとしたといえるかもしれません。

> 規範からの逸脱のもたらす快感は、規範がなければ存在しないですね。不自由のないところに自由が存在しないのと同じ。マジョリティは、端的にその存在が規範であり権力と言っても良いでしょうか?川口さんとの対談の中で、おしゃってましたが、お二人ともほどけていない部分があって、またマジョリティに属している部分もあるからこそ、部分的な逸脱が「敗北の官能」になるのかもしれないと思います。

 これは本当にそのとおりだと思っています。
「熊谷さんの身体」と「熊谷さん」という二重構造、というときにも、その後者の「熊谷さん」というのが何を表しているかといえば、『規範や権力を根深くインストールしてしまったプログラムとしての自我』のようなものだと思います。
 そして、「敗北の官能」というのも、この二重構造に内在する緊張関係に端を発するものだと思います。

 ですから、敗北の官能は、プログラムとしての自我、を、少しずつ身体や外部環境と調和的なものへと可塑的に修正していくための、ドライブになりうると。

 自らを、一方的に権力に抑圧されるばかりの「反権力」として位置づけるのではなく、権力を深く内面化してしまった主体として引き受けることから始める。そうすると、権力に抵抗しうる拠点というか羅針盤は、この「敗北の官能」として実感される高ぶりなんじゃないかと、考えたのです。

Posted by: 熊谷晋一郎 | 2010.02.19 05:50 PM

これからトラックバックさせていただきますが、
http://tu-ta.at.webry.info/201009/article_11.html
に私も読書メモを書きました。読んでもらえたら幸いです。

ただ、この書評を読んで、ぼくにはなかなか読み取れていない部分があるなぁと感じました。

熊谷さんの《自らを、一方的に権力に抑圧されるばかりの「反権力」として位置づけるのではなく、権力を深く内面化してしまった主体として引き受けることから始める。そうすると、権力に抵抗しうる拠点というか羅針盤は、この「敗北の官能」として実感される高ぶりなんじゃないかと、考えた》というくだりにうなりました。

もう少し、考えたいと思います。

Posted by: tu-ta | 2011.03.21 05:51 AM

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