« 意識に上るとは、どういうことか? | Main | 非専門家による社会的合理性~保健医療社会学会シンポジウム »

意識に上るとは、どういうことか? 脳神経科学と自己

先日のセミナーの内容の簡単なご紹介です。

話された内容も書いたつもりですが、感想だったり、ぼくの意見・解釈だったりが多いので、あくまで私的まとめです。なお、メモを書き込んだ汚いものですが、当日配布されたレジメもアップしておきます。
PDFファイル(約600Kbyte)です。
「熊大・東大合同セミナーレジメ.pdf」をダウンロード

●「マインド・コントロールの脳神経倫理学―ニューロマーケティングと消費者の自律性―」
(小口峰樹 東京大学大学院総合文化研究科博士課程) 

従来のマーケティングでは、depth interview, focus group, loyalty card などを用いた調査が主流だった。これらは「意識」的な購買理由を問題にしているが、1.脳機能画像法などが進歩して手軽に使えるようになってきたこと、2.認知心理学の進歩から、意志決定の「意識的」理由に対する信頼性が揺らいだこと(choice blindness などの研究)などから、マーケティングに神経科学的手法が持ち込まれ、無意識的な情報の調査分析がなされるようになっている。しかし、これは、意識のレーダーに捕捉されない「ステルスマーケティング」につながるのではないかという懸念がある。そもそも、ステルスマーケティングは、なぜ非倫理的なのか?という点について考察すると、「意識的な同意」がないということは、「反省的な自己評価」を伴わないことであるから。また、フランクファートの言う、1階の欲求を満たしても、2階の欲求を満たすことにならないから、など。小口さんは、科哲の若手ホープ!とのこと。

cf. フランクファートの議論など、下記が参考になる。
http://www.nanzan-u.ac.jp/ISE/japanese/database/discourse/2005sasaki.html
http://www9.plala.or.jp/seiyuh/frankhurt.summary.pdf


●「歴史的事例に見る脳科学の疑似科学的言説とその社会的影響のパターン――19世紀フランスの骨相学論争とその反対者・賛同者達――」
(隠岐さや香 東京大学特任研究員)

隠岐さんは科学史出身とのことで、この分野では古典である骨相学のガルを取り上げた。彼女が興味を持ったのは、ガルが、アカデミー、専門家、そして一般大衆に対して、異なる戦略の発表をしていたという点で、たとえばアカデミーに対しては、脳の解剖学についてのみ話し、自分で考えついた骨相学理論そのものは触れず、逆に、大衆向けには、自分の理論の応用面ばかり強調して話したということ。今風に言う、サイエンスコミュニケーションの走りみたいだということで、ぼく自身、現在の脳科学者の市民向けの発言に関して、疑問を持つことが多いので、とても参考になった。


●「エンハンスメント論における健康概念」
(田口周平 熊本大学大学院社会文化科学研究科博士課程) 

田口君は、エンハンスメントは、「健康を保つ以上の改良(改変)を行うこと」と定義される以上、「健康」って何だ?ということで、二つの健康の概念について説明した。一つは要素的(analytic)な視点で、Booseの生物統計理論、もう一つが全体的(holistic)な視点で、Nordenfeltの健康のウェルフェア理論だった。・・・が、これらの概念は、やはり疾病との関係、医療との関係で使われてきたため、それより「上」を語るのには、どうも今ひとつしっくりこないという感じがした。もう少し頑張って下さい!


●「長期記憶を操作する技術と〈ほんもの〉という理想」
(中澤栄輔 東京大学特認研究員)

薬物や脳への介入により、記憶という能力を操作することが可能になっている。たとえば悪い記憶を消去したり、記憶力を強くしたり、コンベンショナルな努力なく新しい記憶を持ったりすることの倫理問題は何か?
人格の同一性が損なわれることは非倫理的とされるが、人格の同一性とは何をもって言うのか?特に、よく生きること Well-being の中核的概念ととらえられている<ほんもの>(Autheticity)という概念は、本来は自己実現のために、自己を変革していくことを含むが、それと人格の同一性の関係も不明瞭である。
中澤さんの議論は、全部、きちんと理解できていないが、人格同一性を、質的と量的(qualitative, quntitative)に分けて、前者はより不可侵であり、後者はより変えても良いというマップをしたこと。また、この後者について、authenticityという概念を導入するが、その中で、Taylor の言う「自己実現」「他者による承認」「アイデンティティ」という3条件のうちの前二者を使うとのこと。「他者による承認」というのは、下條さんのサブリミナル・インパクトに出てくる、すばらしい発見が行われる時の二要素の一つでもあったことを思い出した。

Authenticityを巡るあれこれ
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070508/1178602180

●「意識に上るとは、どういうことか?」
(粂和彦 熊本大学発生医学研究所准教授)

ぼくの発表のレジメは、下記のPDFファイルを参考。
「粂ハンドアウト」をダウンロード

最近発刊された論集に書いたのだが、クリックが著書で書いたように、「こころ」とは、無数の神経細胞が作り出すものに過ぎない、というように脳神経科学者が語ることに違和感がある。というのは、「○○に過ぎない」とうのは、基本的には「価値が低い」という、価値判断を含意するからだ。しかし、そうなのだろうか?宗教を信じていた時代ならいざ知らず、一元論的世界観が、ある程度社会的地位を得ている現代で、素朴心理学的な「私」や「こころ」に対する理解が間違っているからといって、「私」や「こころ」の価値が何がしかでも下がるのであろうか?と、考えると、このような表現は、「良くない」のではないだろうか?というのが、ぼくの最初の問題意識であり、以前書いたエントリーにも通じる。

今回話した内容はハンドアウトに書いた参考資料を読んだだけのレベル。包括的な準備・能力不足で、進歩のない、つまらない発表だったと思われる。


●「道徳的判断と動機」
(信原幸弘 東京大学大学院総合文化研究科教授)

道徳的判断(moral judgement)において、動機内在主義、つまり、認知と欲求が区別される通常の行為の判断と異なり、動機(行為の欲求)が=判断であるという立場がある。しかし、ロスキースらは、VMPFC損傷患者は、道徳的判断はできるが動機は欠く(○○した方が良いと思うが、○○したいとは思わない)ことから、動機内在主義は間違っているとしている。(脳神経倫理学の第2章の議論)

信原先生は、この議論についての判断とは別に、動機内在主義を実現するための神経モデルが考えうるかという点について、マクダウェルの「欲求内包的世界把握」と、ミリカンの「オシツオサレツ表象」を引いて、不可分の神経基盤において、動機と判断が同時になされる(つまり、動機=判断となる)可能性があり、また、そのシステムが動機外在型の通常のシステムとハイブリッドになって存在する可能性を示唆した。また、それが実装されているかどうかは哲学的な問題ではなく、経験的な問題であるとした。全く同感。ここである音を聞くと、ある味を感じてしまうというような共感覚についてのコメントが会場からあった。

二つの「合理性」概念--J.McDowell的(*001)「道徳的実在論」の批判的検討--
http://www.edu.shiga-u.ac.jp/dept/e_ph/dia/0791.html

ミリカン『意味と目的の世界』(7)
http://d.hatena.ne.jp/charis/20070622

なお、蛇足ながら、ぼく自身は、このVMPFC患者たちのしている道徳的判断は、たとえ答の内容が同じでも、彼らが病気になる前にしていた判断と同じ基準に基づいているとは考えないので、このような患者の存在が動機内在主義を否定するとも考えない。つまり、実際、彼らの答は、微妙な部分(トロリー問題のような)で、健常者と異なるとされ、それは、多分、彼らが病気になる前とも異なることを示唆する。とすれば、これを、道徳的判断と呼ぶことそのものが間違っているのではないだろうか?

たとえば、私達が道徳的判断をするときには、理性よりも、直感を大切にしている気がする。そして、その直感に重要な役割をしているのは、その問題を考えたときに、どきどきするかどうか、などの身体感覚による部分も大きい。昨年の論集にも書いたが、極端な言い方をすれば、心臓の脈拍を押さえる薬を飲んでいる時に私達がする判断は、飲んでいないときとは、微妙に異なる可能性がある。とすれば、それは「質的に」異なる判断なのである。


●「自由意志と賭けとしての自己決定」
(高橋隆雄 熊本大学大学院社会文化科学研究科教授)

科学の発展が示すのは、世界がある意味で決定論的であり、その中で脳神経科学は自由意志を否定する試みをしているように見受けられる。そのような決定論的世界の中で生きることに意味について考察する中で、高橋先生は、自己決定と「賭け」の類似性を見出す。「賭け」は結果を目指すだけではなく、「賭け」に参加することそのものに価値があるという見方から。

今回は、九鬼周造(う・・・っ、だめだ、ついていけないが・・・)の偶然・必然・運命愛を引き合いにして結論を強化する。われわれの生は、形而上学的な必然であったとしても、その原初の部分で原始偶然である。これは他者でもありえた我、という考え方から、運命愛に通じる(そうである。)

つまり、行為をする意図の中には目的的必然があるが、行為は目的的偶然を本質とする。そして、行為をすることで、偶然としての結果が起き、それを受容・学習することで、行為をすることそのものが価値を持つことになる。

議論を完全に理解しているか疑問はあるが、この結論には「賭けたい」と思う。

児玉先生の話は、直接関係しないので省略します。

|

« 意識に上るとは、どういうことか? | Main | 非専門家による社会的合理性~保健医療社会学会シンポジウム »

Comments

うーん、これだけ脳科学が目の敵にされているということは、それだけ社会的影響力のある脅威だととらえられているということなんでしょうか。一部の、お金儲けの手段に利用しようとする「脳科学評論家」が目立つせいでしょうか。
―脳科学者

Posted by: Kaoru Sekiyama | 2009.05.28 at 11:44 AM

こんにちは。ご無沙汰です。
ぼくの印象では、脳科学が特に「目の敵」にされているということはないと思います。哲学の世界では、脳科学の進歩が哲学的な思考の進歩にもつながりますから、進歩を否定する人はいません。「倫理学」という学問が、批判的な面を持つのは本性的に当然で、それは、もちろん社会的な影響が大きいからでしょう。


Posted by: | 2009.06.06 at 12:12 PM

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/15474/44979314

Listed below are links to weblogs that reference 意識に上るとは、どういうことか? 脳神経科学と自己:

« 意識に上るとは、どういうことか? | Main | 非専門家による社会的合理性~保健医療社会学会シンポジウム »