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合理的とはどういうことか?#3

合理的とはどういうことか ~愚かさと弱さの哲学~
 (岡部勉著・講談社選書・メチエ ¥1500)

さて、ぼくの疑問と感想です。多くの部分で納得できたのですが、今回はレビューということで、敢えて少し異議があった部分を中心にコメントしました。当日は、あまりうまく説明できなかったのですが・・・

疑問で最大のものは、「価値」に関する部分で、本当にある状況下で(熟考すれば)最も合理的で合意が形成できるような、一つの答や、「価値」が存在するのかどうか・・・岡部先生は、実在論の立場で、ぼくも、そうであれば良いという願望はありますが、確信はもてないし、納得はできないということでしょうか・・・

その納得のできなさの元にあるのが次の2点で、この二つは基本的には同じような内容を指しますが、これらに関してコメントしました。

1.「価値」の共有のために非言語的な情報共有の果たす役割(自己と自己の間、つまり人間と人間の間の関係性を含む)
2.「価値付け」において「意識できない部分」の役割(自己の内部、つまり一人の人間の内部での自己決定の在り方)

まず、「目的」や「価値」の共有に、人間しか持たない言語が必須で、言語以外では伝えられないという部分についてですが、たとえば科学や論理学で、言語に基づくものが果たす役割の重大性には異論はありません。しかし、日常的な行為における価値判断、あるいは、逆に生命倫理のような形而上学的な価値が問題になる文脈で出現してくる「価値」は、おそらく言語化されずに社会の中で共有されているものがたくさんあると考えます。それは、文化とか伝統というものもありますが、表情とかトーン、何らかの感情(情動)で伝わるものでも良いはずです。また、その中には、おそらく、遺伝的にも環境的にも「個人差」があり、せいぜい多数決でしか合意が得られない性質のものもあるのではないかと考えています。

ぼく自身の人間の見方は非常に単純、脳科学者的?で、人間は外界からの何らかの入力に対して、何らかの判断(思考)を行って、何らかの出力(行為)を行うものだとみなします。この入出力は、もちろん言語を介するものもかなり多いわけですが、言語以外もあります。

わかりやすい例として、「生命倫理」の講義中に、倫理的なジレンマが生ずる問題を与えられた学生のことを考えてみましょう。たとえば、「あなたは脳死臓器移植に賛成か反対か」、とか、「着床前診断に賛成か反対か」というような設問です。(なおこれは三人称的設問なので、一人称的に行為(≒動機付け)を問うために、学生ではなく、不妊治療を受けている人自身のことを考えることも必要になりますが、ここではそこまで書きません。)

この場合の直接の入力は、ジレンマ問題(言語化されている)です。そして、思考に当たる部分は、それよりも前の経験で「脳内」に蓄積されている情報、つまり、その人が育ってきた全ての環境(教育・しつけ・文化)の中で得たさまざまな情報を用いて、そのジレンマ問題に対して、いろいろな「熟考」を行い、「価値づけ」をして、解答をだします。この「前段階」での「情報」が、すべて言語化されて入力されて脳内に蓄積しているとは到底考えられません。

結論を出すためには「対立する価値の重みづけ」が重要になります。たとえば着床前診断の「多種類の」メリットと、「多種類の」デメリットを重み付けして、結論を決めることになりますが、いったい、私たちは、どうやって重み付けをしているのでしょうか?

認知科学の最近の進歩から、私たちが価値判断をするときに、情動が非常に重要な役割をしていることがわかってきています。「情動」は、認知科学的には「感情」と異なるもので、ごく大雑把に言えば、「感情」は意識できるものですが、「情動」は意識できるとは限らないものです。たとえば、着床前診断をして中絶を決意したときに胎児を殺すことについて思い浮かべて可哀そうと思ってみたあと、着床前診断をしなくて2人目の障害児が生まれてきたときの両親の気持ちになってみて辛そうと思ってみて、「感情」で比較することもできます。でも、「可哀そう」とか「辛い」でさえ、全く定量化できないのに、そのような情景の想起に伴って、無意識のうちに思い出した別のシーンなどの重みが入ってくるとしたら、どうやってその重みの差を自分以外に伝えられるのでしょうか?

また、この「情動」の部分というのは、多くの場合、言語化しないまま共有しているのではないだろうかと考えられます。それは同じような文化の中で、同じ映画を見た影響とかかもしれません。ただし、ここは「無意識」の部分ですし、環境だけではなく、生まれつきの脳の構造・機能にも左右される部分なので、完全には共有できません。これが、ある程度、意識化されると感情・共感、あるいは、倫理的嫌悪感(moral repugnance)などと呼ばれるのでしょう。そして生命倫理に関するジレンマのような場合、この部分の影響は無視できないほど大きい可能性があると考えます。

たとえば、多くの人にとって、「生命」はとても大切なものです。しかし、常に絶対的に重要ではありません。死刑制度に対する賛成・反対を考えるとわかります。ある人にとっての「生命」の価値の重さは、その人の生まれつきの脳の構造と機能、そして生い立ちから育った文化と体験に基づきます。それらは、その本人も決して言語化できないでしょう。とすると、脳死にしても、出生前診断にしても、容認する人と、容認できない人の間には、おそらく言語化できない価値の対立があるのかと思います。

この部分の差というのは、「言語化」できないし、本人も、なぜそう考えるのかを自分で説明できない部分だと考えるので、もし「合理性」が、「言語化」を前提としたものなら、万人にとって納得のいく「合理的であるあり方」は、残念ながら存在しないのだろう、というのが、現状での暫定的な結論です。意識化できない価値を元に、意識化できる部分だけの言語でやりとりしても、合意にいたるわけはないということです。いつか、人類がもっと進歩して、情動部分を全て感情化して言語化することができるようになれば、できるのかもしれませんが・・・

ぼくの上述の議論の中には、「私」という存在や、「こころ」が出てきませんが、その部分については、とりあえず、保留しておきます。

なお、岡部先生自身は、ぼくがここまで書いた考え方は既に通り越していて、これらを前提にしても、なおかつ「合理的なあり方」が存在する、というように考えていて、本書も、その意味での「合理的であること」が書かれていると思います。ただ、ぼく自身の本書の理解が、現状ではこのレベルだったということで、哲学者の書いたものを自然科学者がレビューするのは「愚かなこと」でしたね。

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