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自死という生き方:覚悟して逝った哲学者(書評) :哲学の終末期

死のとらえ方・・・死生観は、人生観でもあります。もちろん、若い間は「自分の死」を意識する必要性はありませんが、「人は誰でもいつか死ぬ」という事実を本当に理解するのが、子どもが大人になることだと、ぼくは考えています。それが、ぼく自身は小学校4年生の時だったと、はっきり覚えています。実は、きっかけが何だったのかは、さっぱり覚えていないのですが、自分も、自分の家族も必ずいつか死ぬのだと思うと、何しろ悲しくて悲しくて、大泣きしながら眠ったことだけは確かです。と言っても、翌日は、全く元気に小学校に行ったのですが・・・
最近は65歳より前に死ぬ確率は5%以下と聞いたことがあります生命表によると男性13%程度、女性は7%程度(40歳前に死ぬ確率は2~3%)ですから、それよりも若い間は、とりあえず死ぬことなどは仮定せず、人生があたかも永遠に続くかのように思いながら生きるのが良いのかもしれません。でも、やはり自分の死や、家族・友人との死別ということを、常に、または、時々は考えながら生きた方が、毎日が充実するという考え方もあるでしょう。

先日、地元の新聞のコラムにこんな記事が載りました。そのうち読めなくなっちゃうので、引用します。

熊本日日新聞 新生面 「葉隠精神」 2008年3月2日
http://kumanichi.com/iken/index.cfm?id=20080302#2831
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通勤の途上、小学校の桜並木に目をやると、花芽がしっかりと膨らんでいた。二十日すぎに花が開き、また散る。桜は日本人の死生観を象徴する花で、武士道と重ねて「花は桜木、人は武士」とも言われた▼
天下泰平の江戸時代でも、武士は常に腹を切る覚悟が求められた。鍋島藩の山本常朝は、武士道を「葉隠」にまとめた。「朝毎に懈怠(かいたい)なく死しておくべし」。死を恐れず生にとらわれない判断を毎日心掛けよ、という意味か▼
哲学者の須原一秀氏は、「葉隠」も参考に自らの死生観を定めた。「死の能動的ないし積極的受容の理論」。要するに、この世でほぼ味わえると思われる喜怒哀楽のドラマを体験したなら、自ら主体的に生を閉じたらどうか、という提案である▼
須原氏は、桜が散る一昨年の四月、提案通りに自死した。六十五歳。死の直前まで元気で明るく、スポーツを楽しんだという。「私は厭世(えんせい)論者でも虚無主義者でもない」と書き始める著書「自死という生き方」(双葉社)は、ユーモアもあって一気に読ませる ▼
イージス艦と漁船の衝突事故に関連し、石破茂防衛相は「私はいつも退路は断っている」と説明してきた。防衛省内部の混乱ぶりが明らかになった今、すぐに辞めるかどうかは別にしても、辞任の意志を明らかにすべき時だろう▼
昨年来続く偽装事件では、経営幹部が世間に謝罪し、会社は信用を失う事態が続いた。その幾つかは内部告発が契機だったという。本当に腹を切る必要はないものの、自らの地位にしがみつかず、「朝毎に…」の覚悟があったのならば、社内の声なき声も聞こえただろうに。
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このコラムを書いた方の意図は、後半にあるのかしれませんが、ここに登場する須原氏の本は、とんでもない本でした。

自死という生き方-覚悟して逝った哲学者
http://www.amazon.co.jp/dp/4575299987/
http://www.arsvi.com/b2000/0801sk.htm

ぼくも一気に読んだのですが、なんというかあっけらかんとして、みもふたもない、というのは、こういうことを言うんでしょうね。この本と同時に届いた「現代思想」の3月号には、武藤香織さんが、ピンピンコロリのコロリばかりが強調されることを批判しているのですが、どちらにも共感する部分があるというのは、やはり一人称と三人称の違いなんでしょうか・・・つまり自分自身は、こうやってあっけらかんとして死んで行きたいけど、あなたにはそうして欲しくないし、知らない人から、そうしろなどとは、絶対言われたくない・・・

いずれにせよ、面白い本でしたし、著者の意図に敬意を払った表現をすれば、著者の死を含めて、興味深い哲学的な実践だと思いました。ただし、彼の実践も哲学も普遍的なものではなく、否定する必要もなさそうです。実際、多くの人は彼のような思想は持たないし、彼のような「極み」には達しないのだろうと思います。ここまでつきつめて考える必要性もないし、積極的に死を選ぶ必要性を感じる状況はとても少ないでしょう。しかし、彼が以下の別の本で述べているように、つきつめて考えても、このレベルの結論にしかたどりつかないなら、確かにいわゆる「大風呂敷を広げた哲学」などは不要なんでしょう。

“現代の全体”をとらえる一番大きくて簡単な枠組―体は自覚なき肯定主義の時代に突入した
http://www.amazon.co.jp/dp/4794806523/

哲学が不要という意味では、最近、通読させてもらったこのブログは、科学者の方が書いているので、ぼくにはとてもなじみやすいものでした。これも哲学否定論です。

哲学はなぜ間違うのか?(元・筑波宇宙センター所長 岩田勉氏のブログ)
http://musai.blog.ocn.ne.jp/jijimusai/
以下から順番に読むのがお勧め
http://musai.blog.ocn.ne.jp/jijimusai/0/index.html

しかし、2冊目の本を読むと、ますます須原氏が自死をしてまで、死生観を示す必然性があったのか、やはりよくわからなくなります。(脳科学的にみもふたもない言い方をすれば、扁桃体からの出力が弱かったのかなあ・・・)また、彼の考え方を認めることが、終末期医療での積極的安楽死を許容する思想に直接つながるわけでもなさそうです。でも、ぼくは自分の死に際しては、彼のような気持ちになれたら良いなあとも思いますし、なんとなく、そんな気分になれる気はします。でも、では、それが二人称(自分の家族、特に子どもだったりしたら)だったらどうなのかというと、やっぱりわかりません。須原氏の自死への疑問点は、その部分につきます。彼は確かに自分自身の人生に満足したし、自分が考える範囲で自分の役割を終えたかもしれないけれど、それでもなおかつ彼にさらに生きていて欲しいと願う人はいたはずですから。

読み終わって、久しぶりに下記の映画のことを思い出しました。この映画の主人公の女性も、人生の幸せの絶頂と思われる時に、自分で死を選びます。

髪結いの亭主
http://www5b.biglobe.ne.jp/~michimar/movie/068.html


いずれにせよ、最後に、こう叫びたくなりました。

他の哲学者たちよ、もっとしっかりせんかい(笑)!

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