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医療における医学と倫理

これは、メディカルトリビューンという業界紙?のリレーエッセイに書いた文のタイトルです。昨年2006年12月28日号に掲載されましたが、10月のシンポジウムでも同じタイトルで話しました。その時は、とても「倫理」のレベルに到達しない話で終始しましたが・・・

20年前には、医師患者関係には対等性がもっとも重要だと考えていましたが、最近は何よりも信頼が大切なんだろうと考えています。もちろん医師側にも患者側にも対等だと考える気持ちがなければ、信頼関係など作りえないので、どちらが重要というものではありませんが、「信頼」というものを、今後はきちんと考え直してみたいと思っています。

以下、そのエッセイです。

<追記>
この内容を中心に、熊本大学の生命倫理研究会から出版した「日本の生命倫理:その回顧と展望」に文章を書きました。下記で、全文読めます。

熊本大学生命倫理論集1
日本の生命倫理 ~回顧と展望~
第4章 医師・患者関係の変遷
http://www.k-net.org/rinri1.html

医療における医学と倫理                                熊本大学  粂 和彦

 私は基礎医学研究者として睡眠の仕組みを研究し、医者として睡眠障害診療をして、研究と臨床の両方に従事しています。しかし医学部に入学して以来、研究者としての自分と、医者としての自分の両立の問題に悩み続けていて、今でも自分の中で二つの間に大きな壁があります。高校生の時、難しい病気の原因や治療法を見つける研究をして、社会の役に立ちたいと思い医学部を志しました。開発されたばかりの遺伝子組み替え技術が脚光を浴び、癌遺伝子という言葉が新聞にも紹介され始めた頃で、癌の診療をしながら癌の研究をしたいと思いました。ところが1981年に東大に入学してすぐ教養学部の「医療と社会」のゼミで、増子忠道先生に「医学と医療は異なる」と教えられ、悩みが始まりました。
 医学は「科学」ですが、医療は「技術」であり、科学は「真」を目指し、技術は「善」を目指します。科学は興味本位の好奇心が動機でも許されますが、医療は患者さんの役に立つことが必要です。また科学では事実の解明自身が目的で、善悪は不問ですが、医療では「何が役に立つ善いことで何が悪いことなのかを決める基準」、つまり倫理が必要です。たとえば核分裂の発見は科学的意義がありますが、その応用の核兵器の使用は悪です。また原発は善と考える人が多くても、チェルノブイリ事故の被害者は悪と考えるかもしれません。絶対的な善が存在するという考え方もありますが、その考え方そのものが全員に共有されていない以上、善悪の基準は価値観に基づく相対的なものです。また研究は失敗しても困るのは自分ですが、医療は医師と患者という人間関係の中でしか成立せず、結果を引き受けるのが他人です。真・善・美の中で、真は人から離れた所にあり、善は人と人の間にあり、美は一人の人の中にあるとも言えます。
 医学者にとっては、人体の不思議な仕組みも、その異常である病気も、とても興味深いものです。医師同士の間で「今日は面白い病気の患者さんが来たよ」というのは、ごく普通の会話です。しかし患者さんが聞けば、自分の病気を「面白い」と言われて嫌な思いをするかもしれません。会話の中では病気にかかって苦しい思いをしている人間としての患者さんが抜け落ちてしまうこともあります。極端な言い方をすれば、医者は他人の不幸である病気の診療で糧を得て、おまけに医学者としてそれを知的好奇心の対象とします。しかしこれは決して悪いことではなく、病気を個人から切り離すからこそ、医学対象としての「標準化」ができますし、治療方針も「客観的」「理性的」に決められます。ところが、「病気」という記号化・一般化をすることで、個々の患者ごとに異なる「個別性」と、医療が内包する「不確実性」が失われがちになります。
 医療が患者さんのためであることに異論はないでしょう。医療が善悪の基準を必要とするなら、それは医師ではなく社会と患者さんの価値観に基づくものであり、医師が良いと思うこと、医学的に正しいことが、常に良いとは限りません。ところが私が医者になった20年前には、「病気を治す」という医学的な目的だけが強調され、患者さんに聞かなければわからないはずのことを軽視する習慣が広く存在しました。最も典型的なのが癌を告知しないことであり、医師側の善意に基づくものではあれ、医療現場には「嘘」がはびこっていました。また医学研究のために「患者を使う」という感覚も大学病院には根強くあり、そのような中で、私自身は医学研究と医療という相互に矛盾しうることを、一人の人として同時に行うのは無理だと考えて、大学の医局に入りませんでした。
 その後、医学と医療をわけて歩いてきたつもりでした。しかし医学には科学として確立された部分と研究の両者があり、医療の中でも確立されたことを使うだけでは済みません。実際、ほぼ全ての医療行為は不確実性を伴い、ある意味で研究・実験に近い試行的な要素を常に含みます。また医学分野だけに限らず、20世紀後半から科学の進歩と応用が急速になり、科学と技術を分ける意味が失われ、「科学技術」という言葉が使われます。私自身も経験を重ねる中で、医療は医学という科学に基づき、その研究性・実験性をも内包しながら、同時に倫理的であることが必要なのだと考えるようになりました。それが、このエッセイのタイトルの意味です。
 結局、科学者としては不確実で確信が持てない医療行為を、医者としては決断して行う必要に迫られるという原点のジレンマに戻ってしまいます。とすればやはり、不確実な行為が許容され、双方が失敗に対してさえ納得できるために最重要なのは医師・患者間に信頼関係が存在することだと考えます。さらに、その信頼関係を支えるのは、医学の不確実性に対する謙虚さ、相互の共感、そして嘘をつかない誠実さで、これらが21世紀の医療のスタンダードになると良いと願っています。

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Comments

臨床しか考えてなかった医学生の頃、「アメリカに負けていてはだめだ。どんどんリスクを押してあたらしい治療にチャレンジしなければならない」というようなことを言っている外科医に対して、「負けてていいじゃないか、アメリカ人が散々トライアンドエラーしたあとの成果だけもらえばいいんだ。患者さんができるだけ苦しまないでいい治療がうけられるように。」って思ってました。研究者としての視点や、国の経済発展の観点からいえば、世界と競争し勝つことは大事なことなんでしょうが・・・。年末貴重な中絶胎児の標本が手にはいったことを「すばらしいクリスマスプレゼントだ。」といってた解剖学者がいましたが、それを非難していた級友を非難している自分も思い出しました。
 R・P・ファインマンの「科学の価値とはなにか」っていうエッセイに、ファインマンも倫理と科学に悩みつづけていたことがかれていました。我々は実はなにも知らないのだから、悩むことの自由を将来においても、次の世代にももとめていくことが科学者の責任というようなことばがありました。


Posted by: dayafter | 2007.01.25 at 07:02 PM

要は 患者さんがリスクを認容するかどうかですな
これはもう義務教育でリスクというものについて
国民全員が考える機会を持つ必要がある時代だと思います

Posted by: いのげ | 2007.02.02 at 02:03 PM

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