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生命を育む思想:メモ

秋の行楽日和の好天気の週末に、大阪のMERSのイベントに参加して来ました。思えば2002年11月16日に第4回薬害根絶フォーラムで花井さんたちに初めてお会いしたのも大阪でした。その時に薬被連という団体が、そのメンバーの辛い体験の数々にもかかわらず、ぼくのような非当事者にとっても親しみを感じられたのは、中心にいる花井さんや勝村さんたちの豊かな人間性のおかげだったのですねと、メールを書いたのを思い出しました。辛い体験をすると人は大きくなるのでしょう。今回のイベントの最後に薬害エイズ被害が被害者・家族にもたらした正の影響についても検討したというのは評価できると思います。ぼく自身は、いろいろ事前に思い描いていた形のことができない部分もあったのですが印象深い会でしたので、忘れないうちにメモを残しておきます。

生命を育む思想 ~薬害エイズと医療
http://www.mers.jp/event/1014-15_4.htm

以下、長いメモ

<基調講演>
()内は、ぼくの補足・意訳、#以下は感想

小林傳司氏:未知なる事態に於ける科学者の役割と責任

科学はもともと、役に立たないものだった(e.g. ニュートンの万有引力の発見)
20世紀に入り科学に基づく技術が生活を大きく変え、科学万能(自然は支配できる)という考え方が広がった。
1970年の大阪万博のテーマ:人類の進歩と調和=科学技術信仰に象徴される。
(この時の太陽の塔はアンチテーゼだったのだろうか・・・今でも唯一残る当時の建築物)
科学技術と社会の関係の変容=社会の科学技術化と科学技術の社会化が進行。
科学不信の元になった様々なできごと、水俣病、BSE、薬害の数々が起きる。
不確実性の増大:科学技術の細分化・専門化と、進歩の急速化により、科学者自身が科学的な答を用意できないことに対する判断を求められるようになってきた。
結果の巨大化:専門家にも責任を負いきれないような判断の出現、専門家は判断から逃避する。
専門家に求められるもの:パブリックの意見を聞くだけではなく、自分の中にパブリックを持つこと
トランスサイエンス、媒介の専門家の必要性
コンセンサス会議:コンセンサスを得るためではなく、事実・価値観・不確定性を共有する場
新たな意思決定方式の必要性:納得できる失敗

#小林先生の話を医療における医師~患者関係にあてはめる時に、「納得のできる失敗」が絶妙のキーワードだった。4月に提唱した医師・患者のコラボレーションにおける「わからないこと(不確実性)の共有、未知の前での謙虚さ」、そのための医師側が医療の不確実性を伝える努力の重要性を確信した。
 小林先生は、物理学科卒後は村上陽一郎先生の元に学ぶ。現在、大阪大学教授。STS学会を立ち上げた人。いつも思うし悔しいが、物理、数学やら哲学をやる人は頭がいい・・・今月号の「現代思想」の冒頭で意識の対談をしている茂木・池上・郡司って、3人とも物理出身だし。

小林さんの編集した本はお勧めです!
 「公共のための科学技術」 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4472402742/


養老孟司氏:治療行為の不確実性と所与の存在としての患者

 自分の子どもの頃から50年の社会の変化はすさまじい。今、社会に起きている問題の根底は、石油をエネルギー源として安く潤沢に使えるようになり、一部の国では食料を作り出すような労働をする必要がなくなり、都市に大量の人間が住むようになったから起きているのではないだろうか。全てそこに帰結できるのかもしれない。
 都市はひとつのシステムだが、必ず外部からのエネルギー供給を必要とする。古代文明は木材を切り倒して燃やしていたから、その周囲の森が無くなった段階で滅びて後には荒地が残った。極論すれば、現在の地球上で問題になるのは石油の量と水。中国の本当の弱点は水が少ないこと。人口比では全世界で一人あたりが使える量の3分の1しかない。
 現代の状況をあたりまえの状況とは思えない。石油がいつまで続くのか?そのことを心配しないのは、考えようとしても思考停止に陥るだけだから。戦争中には神風がいつか吹くから負けないと、どう考えてもありえないことを市民はみななんとなく信じていて負けることそのものを想像することができなかった。ましてや負けた後のことを想像することなどできなかった。でも負けた後の社会の方が良かったと肌で感じる。そして貧しかった時代もどうしようもなく悪かったわけでもないので、石油がなくなった後の将来のことはあまり心配していない。かえって良くなるかもしれない。高齢化社会というが何もしないで50年待っていたら、団塊の世代が全部死んで解決する。(医療費が増えて国が滅びることはないし、たとえ破産しても別に貧しくなって、せいぜい海外に遊びに行けなくなるだけで心配することはない、ということか?)
 医療は見る観点から価値が大きく変わる。マスで見れば医者が言うほど医療は社会に貢献などしていない。結核が減り始めたのは、抗結核薬の開発の前で栄養状態の改善の効果が最大だ。女性の平均寿命は、もともとは男性よりも短かったが大正8年頃を境に逆転した。この伸びは分娩回数と妊婦死亡率の減少のためで、それは水道水の塩素化と大きく関係する。イギリスでは医療にかけるお金を制限して、あるところまでで止める。医療はその程度のものだ。最近、男性の平均寿命が少し短くなったが自殺が増えたから。
 しかし、個人の視点からいえば、医療はものすごく有難いときがある。(怪我をして大出血した時に救急で止血・輸血すれば、その個人の命そのものが助かる。)困った時だけに比較不能なくらい大きな価値を持つ。医療問題はこの見方や立場による価値観の相違にほとんどが由来する。
 自分は医学部を出てインターンを1年だけしたが、その間に3回も医療事故を(今で言うニアミスを含めて)経験した。一つは血液型判定のミス、もう一つは内頚動脈と外頚動脈を間違えて結紮した。だからインターンは真面目にしたし、母親が開業医だったのでいつか歳を取ったら医者になるつもりだったが基礎医学(解剖学)に進んだ。解剖学では患者が既に死んでいるので、絶対に医療ミスで患者を殺さない。なぜ同級生がこんな不確実なことを平気で続けられるのか理解できなかった。
 医療の中では、患者が病気になってそれを治して初めて感謝される。予防しても、「病気にならない」ことのありがたみは測れないし感じられない。(だから医療者は本当の意味で病気をなくしたいとは思わない)救急医療も充実はしたが、その結果は脳機能障害を持つ患者を増やした。アメリカがコーストガードを10年がかりで養成して海岸に配置した結果も似たような結果だった。でも、それをどう考えるのか?日本は今よりももっと医療を厚くすることを市民が望むのか?
 生物は自然淘汰されるというが、それは情報もそうなのだろう。脳は見たいものをしか見ず、聞きたくない意見は残さず、排出=淘汰する。
 ウィルスは結晶化できる。ほとんどモノである。単独では増えない。細胞に入り込んで寄生して増える。だから、昔はウィルスは生物ではないと思っていた。でも、細胞も良い環境と栄養がなければ増えない。栄養を作り出しているのは太陽光と植物だ。植物に存在を頼るということは寄生しているのと変わらない。(全ての生物は地球に寄生しているとも言える。)
 (討論の中で)システムは閉じていた方が良いだろう。悪いものを外へ排出するのは良くない。その意味では臓器移植を受けに海外に行くのはよくないだろう。

#時間が短い中であまりにもスケールの大きな話から始まったため、最後は中途半端な感じはしましたが、医療の不確実性を体験談を使って話して頂いたのは、とても良かったです。それにしても、いろいろな「情報」が養老先生の脳の中では独特の関係でつながっているもんだと思いました。
 その後、懇親会では虫の話と脳の話をいくつか・・・特に興味深かったこと。唯脳論にも出てきたと思いますし、バカの壁の主題にもなっていますが、養老先生の見方では人間の脳の機能として一番重要なのはカテゴリー化することができること。同じがわかること。どんなに身長も体重も違っていても同じ「人間」だと理解するし、音程も音質もことなっても、同じ言葉は同じ意味だと理解できる。犬などは飼い主の家族が呼ぶ自分の名前を異なるものとして認識しているのではないか?たとえば二つの「同じ種類」のコップがあっても、二つはモノとして当然異なる。でも、この二つを「同じと分類」する機能により、脳はコップを記号化して「没個性化」する。その記号化されたものからはクオリアは失われる。記号化されたコップと茶碗は同じ「食器」と分類される。「食器」はものの一つである。「もの」とは地球上に存在する何かである。
 こうして、どんどんグループ化していったら最後は一つになる。これが唯一絶対神で西洋的な考え方。(ウィトゲンシュタインの論考を読んだ時の気分を思い出した。「2.063 現実の全体が世界である」)日本人は、たとえコップでも一個一個違うと感じて、それがやおよろず(八百万)の神の発想につながるのかもしれない。西洋人には、ドッペルゲンガー(自分と全く同じ姿形をした幽霊のようなもの。英語ではダブルという意味だそうです)があるが、あれは自分と完全に同一のもので分身ではない。日本では分身の術を使うと外見は同じでも異なる人格を持つものが現れると考える。英語でidentical twin という言葉は、日本人的感覚では理解しにくい。西洋人の方が「同じ」と感じる文化(能力?)が強いのかもしれない。クオリアというのは記号化する前の毎回異なる感覚入力であり、それを分類・記号化した瞬間に失われるものだと考えると、多分昆虫のレベルでもクオリアはあるだろう。(これ茂木さんは賛成しない気がするが、ぼくは賛成・・・)「わたし」の問題も、記憶などを内省した時に「同じ」と感じた時に出てくるのでは?(この部分は表現がうまくできませんが・・・)睡眠の意義は、脳内のエントロピーを減らす目的なのではないか?などなどなど・・・
 23年ほど前の大学3年生のフリークォーターで(東大の隠語?、熊大の基礎演習、阪大の基礎配属、東北大の基礎修練と同じ)、養老先生の研究室に1ヵ月半ほどお世話になりましたが、その後同じキャンパスにいても、ゆっくりお話できたのはそれ以来でした。今回、当事者性、当事者の語りなどの重要性が強調されていたのですが、「同じ病気」とくくった瞬間に医者の頭の中では患者が記号化され、病気以外の患者の「クオリア」が失われると言えるのかもしれません。薬害エイズ被害者が1500人とか1800人とか言った瞬間に、日本の人口1億人とかの数字に現実は記号化され埋没する・・・そもそも既にぼくの頭の中でも、1500でも1800でも、何の変わりもなく感じてしまいます。そこには300の人生の重みを感じられないのです。しかし、それだからこそできるような決断もあるのかもしれませんし・・・ 養老先生、2日間の長時間、お疲れ様でした。


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秋の行楽日和の好天気の日曜!、それも朝9時!!、さらに大阪とはいえ郊外!!!(しつこい)の千里中央で2日目のイベントは開かれました。朝早くから来て頂いた方には、ただ感謝です。

フォーラム2:医療における医学と倫理(ぼくのスライドタイトルは、医療の中の医学と倫理でした)

 裏番組にとても興味深く、おまけに素敵な女性3人がパネリストのセッションがあり、そちらに聴衆として参加してしまいたいという希望を捨てて、男3人のセッションをしました。前半は勝村さんが自身の最初の娘さんを失われた後からこれまでの話を、後半はぼくが、なぜ現在の肩書きとは全く関係のない今日のイベントで、おまけにあまり道徳的でもない不良高校生上がりの?ような人間が「倫理」の話をする破目になったのかを、医学部に入学後から今日までの間に転機になったさまざまな出来事を交えてナラティブに話しました。本当はその後の議論に進むための準備も少ししてあったのですが、花井さんには5分しか残さなくて、ごめんなさい。余談ですが、今回のパネリストの3人は1961年、62年生まれで、同じ年代にはサリドマイド被害者が集中しています。ぼく自身の母もつわりがひどくイソミンを飲んだことがあるそうです。つわりに使われる薬に催奇形性があったなんて、めまいがします。血友病患者のHIV被害も、ぼくたちの世代の前後に多く、勝村さんの上のお子さんが陣痛促進剤の被害にあった年に、近くの病院で生まれたぼくの上の息子が1歳でワクチンを始めた年にMMR事件は起きました。また薬害エイズの被害者のほとんどがHCVでも苦しんでいますが、HCVはぼくが医者になった頃にはnonAnonBと呼ばれ、そのウィルスはぼくが大学院時代に学んでいた頃の阪大微研で発見されました。ぼく自身もHCVの患者さんを作り出した可能性はあります(当時はGPTの値のみでチェックしていました)。研修医の時にはHCV(上述のように非A非B慢性肝炎と呼ばれていました)の肝癌の患者さんから採血した注射器の針を自分の指に刺してしまった経験もあります。幸い感染はしませんでしたが、薬害が他人事とはとても思えない理由です。
 このセッションのタイトルの意味は、医療の中には科学的に考えることのできる医学の要素と、価値観に左右される倫理の要素があり、その両者をどうかなえるかが問題であるという意味です。倫理とは目的(基本は患者の幸せ)のために良いことかどうかを考えるということです。ただ今回の話では倫理の内容を考える以前に、万人にとって自明なレベルの倫理的な行為が保証されることが最低限必要だという点を話したいと考えたことや、理念より現実、当事者性を伝えたいと考えたため高尚な話?にはしませんでした。
 勝村さんの話を聞くのは、もう6~7回目ですが、今回のように余裕を持って話してもらうと心に痛く響きます。1990年12月に勝村さんの奥さんは枚方市民病院で「誘発はしないで下さい」とはっきり依頼して入院したにも拘わらず陣痛促進剤を投与され、過強陣痛の末にお子さんを亡くされました。これはインフォームドコンセントの理念や病名告知の倫理的問題などという高尚なレベルの話とは全く無関係な単なる犯罪行為と考えられます。ところが、その後の訴訟ではカルテ改ざん・証拠隠滅という当事者の嘘、そして当事者ではない産科医の書いた嘘の鑑定書という2段構えの専門家の嘘の壁に対峙することになります。
 ここに見えてくる問題は個人としての専門家の信頼性の問題と、システムとしての専門家集団の信頼性の問題があります。個人としての信頼性に関しては、医者は別に全員が聖人ではありませんから嘘をつく人もいるでしょうから、なかなか全面的な解決は難しい。しかし専門家集団としての信頼性に関しては、鑑定意見書の公開のような情報公開などである程度は担保できるかもしれません。いずれにせよ、倫理を語る以前の問題であることは間違いありません。
 それからもっと大切なのは、勝村さんがいつも示す分娩数の曜日変化のグラフでピークの火曜日の分娩数が日曜日の分娩数の1.5倍近くなることは、現在もいかにたくさんの分娩が計画分娩で行われているかを示します。これを「悪いこと」と決め付けているのではなく、このように分娩が医療化されている事実が市民にはほとんど知らされず、医療側の事情だけで決められてきたという事が重要で、小林先生の言うように、このような決定には市民の意見が反映されるようなチャンネルが必要です。
 後半の私自身の「生い立ち」の話は、実は小さな内輪の会で話すことはあっても、公開されたイベントで話したのは初めてで書きにくい内容?を含むので省略します。ただ、このフォーラムのテーマの医療と医学の差について教えてくれたのは東大のゼミで習った増子忠道先生であり、彼が当時ゼミを持っていたという点は、ぼくが東大という大学の懐の深さとして評価している部分です。


フォーラム2:水俣病と現在

 前半は立命館大学の木野茂先生がチッソ水俣病関西訴訟原告の坂本美代子さんと対談しながら、水俣病の50年を足早に振り返って下さいました。ぼくは熊本に住んでいるのに、あまり水俣病のことは知らなかったので勉強にもなりましたし、とても素晴らしいセッションでした。特に原因がはっきりするまでの数年間、感染の危険のある奇病として扱われ、学校にも行けず、外を歩けば石を投げられたという話を直接お聞きするのは、本当になんとも言えない気持ちにさせられました。
 後半は甲南女子高校の藤田三奈子先生が、自分自身もあまり知らなかった水俣病を高校生に学ばせた経験を紹介しながら、自身や高校生たちが水俣病から学んだことの大きさを話されました。ぼくもこのところ時々高校生向けに授業をすることがありますが、生徒たちに興味と現実性を持たせるという工夫の数々には大変感心しました。もちろん坂本さんたちのような当事者の話を聞くことは一番だったようですが、身近に感じさせる工夫の中に出てきた「うんこをしたら、どこに行くと思う?」という問いかけは、養老先生の指摘する「身体性の喪失は水洗トイレの普及から始まった」という話を彷彿とさせて素晴らしいと思いました。この話題にたどり着いたのは、偶然というよりも必然でしょうが、そうですよね・・・われわれは自分の排泄したものをまた口にし、誰かの吐き出した空気をまた吸っています。うんこを水洗に流したら、どこでどうなっているのか知らない、というのはいかにも現代人なのでしょう。
 このセッションの最後には3人のパネリストに加えて、水俣病の方のアッシー君をしていたら、水俣病の専門家のようになってしまったという山名由紀さんとサリドマイド被害者の増山ゆかりさんの話がありました。山中さんの発行するメルマガのサイトは下記を参照。
 木野さんは(なんと木野さんももともとは物理の専門家であった・・・)、10月15日が2年前に水俣病の関西訴訟の最高裁判決が出た日だということを紹介しながら、科学技術と社会の間にトランスサイエンスと媒介の専門家と置いた小林モデルは公害にはあてはまらないと指摘しました。これはSTSでももちろん指摘されている部分ですが、当事者の方が専門家よりも詳しい情報を持つことは多く、当事者の切迫性にもっと注目して専門家がもっと当事者の中に入っていくべきで、当事者と企業、研究者、社会の間の風通しをもっとよくする努力をするべきだと話されました。
 増山さんは坂本さんを気遣いながら被害者が語ることは重要だとは思うから語るべきであっても、それは同時にとても辛いことだということを理解して欲しい、また原因を追究してもしかたのない部分があるとしても、犯罪と考えられるような部分に関しては、やはりきちんと追求すべきだと話されました。今回のイベントの全体のテーマは、未知の事態に直面した時に、社会は科学者は、どうふるまうべきかということでしたが、サリドマイドも水俣も薬害エイズも、完全に防ぐことができなかったとしても被害を縮小できた可能性は充分あります。今後似たような問題が起きた時に、社会はより良く対処するためにも、今後も当時の難しい状況について考え続けて行くべきでしょう。
 今回は増山さんとホテルが一緒で、朝ご飯の時に少しだけお話を聞かせてもらいました。外見から障害がはっきりしているため、はっきりした差別的な扱いを受けることが今でも少なからずあるという話は本当に胸が痛みました。またそれが、欧米より日本で、日本の中では都会よりも田舎でより厳しい。田舎暮らしは良いなどという科白が日本では言えない人がいるということの責任の一部を、ぼくたちも負っているわけです。

生命・環境系のドキュメンタリー番組放映情報
http://homepage2.nifty.com/yukidon/index.html


フォーラム5: 薬害エイズ調査からの報告

 これは今回のメインイベントでした。前半は薬害エイズ患者の現在について、後半は薬害エイズが起きた過去についての調査研究報告がされました。とても短くまとめられないですし、この部分はMERSの報告書など公式の資料ができるでしょうから、そちらにおまかせします。
 私的な感想だけ・・・前者の研究で、首尾一貫感覚(SOC = sense of coherence)という指標が使われていたのが興味深かったです。後者の研究に関して言えば、医師の文化=医師であるという感覚、最後に養老先生が指摘した、そこにあるpriviledge 感覚やpower 感覚について、もう少し何らかの内容が欲しかったと思いました。
 最後に、村上陽一郎先生が「医療は基本的にはリスクマネージメントである。もっとQC、CBAという手法を導入すべきだと話すと、多くの医師が受け入れを拒む」と話されました。医療がまだまだ呪術の枠組みを完全には超えられていないということなのかと思います。徒弟制度で封建的な中で引き継がれてきてしまったのも、その一因でしょう。もっと内側にも(つまり医療界の内部での相互の健全な交流と批判)、外部にも開かれた『近代的』なものにならないといけないのでしょう。


#最後に、これまで名前だけしか知らなかった方に何人か今回お会いできました。拙い話を失礼しました。

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