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個人と社会・公共の福祉、自己決定と道徳・倫理#1

「道徳的に良いこと」とは何か?
「道徳的に良いこと」を、私たちはするべきか?について

まず、ここでは、道徳は個人レベルの行動規範という意味である。
「道徳的に良い」ということは、どういうことだろうか?たとえば、困っている人がいて、助けてあげることは、「道徳的に良いこと」で、もし、それが、「自分がしたいこと」と同じなら、何の問題もない。病気で困っている人を、医者が自分の専門知識を用いて治療することは、医者自身の「意思・希望」と、「道徳的に良いこと」が一致しているから、問題は起きない。
とすると、「道徳的に良い」かどうかが問題になるのは、「自分がしたいこと」と、「道徳的に良いとされていること」が、相反する場合である。
たとえば、咽喉が乾いている時に、目の前に、水があれば、それを飲みたいと思うのは当然だが、それが、他人のものだった場合に、盗んで飲むことは、道徳に反するため、解決(選択)すべき問題が生じる。特に、本当に咽喉が乾いて仕方ない場合、あるいは、飲まないと自分の命にも危険が迫る場合など、さまざまなケースがあるだろう。
医療の現場に限らず、一般的に、犯罪や事故が起きた時に、被害者は、加害者を憎むこともあろう。しかし、故意で起きた場合でなければ、加害者も悲惨な立場に立つことはあるし、たとえ故意でも、情状を酌量すべき状況もある。
このようなケースでは、被害者は、なるべく加害者に対して寛容になり、加害者は、できる限り被害者に対して謝罪の気持ちを持つことが、「道徳的には良いこと」だろう。
また、社会との関係の中では、「最大多数の最大幸福を目指す」という功利主義的な視点でも、それが良い方向だと思われる。なぜなら、犯罪は、それなりに多く起きるとはいえ、過半数の人が日常的に経験するようなものではなく、「当事者」は、マイノリティ、あるいは、「例外」として扱われる方が、良いからである。(この部分は、この説明は、不十分だが、本稿ではここまで・・・)
しかし、これが、「道徳的に良いこと」であり「普通は自分でしたいことではない」以上、実際に、このような態度を取ることは難しい。理性では理解できていても、感情では許せない、ということになる。多くの場合、直接の被害者と加害者の間には、深いコミュニケーションを築くことは、非常に難しい。

では、当事者ではない、第3者の人間には、このような状況で、いったい何ができるのだろうか?あるいは、どう考え、どうふるまったら良いのだろうか?
もちろん、一般論として、「道徳的に良い」ことを議論することは可能である。しかし、このような状況で、もう少し個別に、第3者が、被害者に対しても、加害者に対しても、いきなり「道徳的には、こうあるべきだ」という態度を取ることは、とても受け入れ難いだろう。そのような態度を取れば、この第3者との間にも、コミュニケーションは、築かれないだろう。
まず、当事者の状況・感情を理解し、それに共感し、一定の信頼関係が結べた後でなければ、「道徳的に良い」と思われることを伝えることはできないと考える。

このことは、実は、生命倫理・医療倫理の分野でも、同じである。
たとえば、前項に書いた、出生前診断の現場で、臨床医は、自分自身の道徳観によらず、肯定・否定のいずれの立場も、きっぱりとは取りにくい。一般論として語る場合の「倫理」と、個別の「状況」は、異なる。
結局は、もともとは単なる第3者である医師は、患者の問題に共感を持ちながら、一緒に逡巡をし続けるのが、もっとも「良いやり方」なんだろうと思う。

私が何事に対しても、一定の立場を明確に取ることを躊躇する理由の一つである。

(本稿は、7月15日時点では、まだ草稿です。)

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