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July 2005

小浜逸郎さんの倫理

着床前診断の項で紹介した、小浜逸郎さんは、1947年横浜生まれで、横浜国立大学工学部卒業の「批評家」と、著書の紹介にある。「批評家」である小浜さんが書いた「倫理学」の本は、従来の倫理学書とは、かなり異なる切り口・・・現実に基づいて、それをどう倫理的に考えるのかという現実に立脚した視点・・・で書かれている。論理展開に疑問がある部分もあるが、私自身にはとても参考になる部分も多かった。一読を、お勧めする。ただし、参考になって勧めるということと、この本の内容や著者の志向性に、共感するかどうかは、別のことで、私自身の嗜好・志向とは、異なる点が多い。

なぜ人を殺してはいけないのか ~新しい倫理学のために
 小浜逸郎著
 洋泉社 新書y (680円)

「弱者」とはだれか
 小浜逸郎著
 PHP研究所 PHP新書  (657円)

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着床前診断について#3

以下に紹介したシンポジウムの簡単な感想である。なお、筆者による私的なまとめは、当日の話の内容を網羅していないため、より興味をもたれた方は、お2人の著書などを読むことを勧める。

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着床前診断について#2

私も末席に名前を連ねる熊本大学の生命倫理研究会が主催して、2005年7月23日にシンポが行われた。本稿では、まず、シンポの案内のみ。感想は、次稿に書く。

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 熊大拠点形成研究B「生命倫理を中心とする現代社会研究」プロジェクトと熊大生命倫理研究会では、長崎純心大学の宮川俊行先生と鹿屋体育大学の児玉正幸先生をお招きし、また教育学部の八幡英幸先生にも加わって頂き、着床前診断をめぐってのシンポジウムを開催いたします。

 宮川俊行先生は、著書に『安楽死の論理と倫理』(東京大学出版会、1979年)などがあり、トマス・アクィナスの研究家で、カトリックの立場から着床前診断に反対の立場を表明しておられます。

児玉正幸先生は、著書に『日本のこころを探る』(斯文堂、2002年)などあり、宮川先生とは対照的に、着床前診断にたいして非常にリベラルな容認派であられます。(筆者追加:新著『はじまった着床前診断』(大谷徹郎、遠藤直哉編著、はる書房、2005年)に、児玉先生の意見が詳しく記載されている。着床前診断を考えるには必読書。)

 さらに、熊大生命倫理研究会の論集1および論集3でもヒト胚の道徳的地位についての論文をお書きになった熊大教育学部の八幡先生にも参加して頂きますので、まさに三つ巴の、非常に内容の濃いシンポジウムとなるのではないかと思われます。賛成派と反対派が一堂に会しての非常に貴重なシンポジウムになると思われますので、是非お誘いあわせの上ご参加下さい。

日時:7月23日(土)13:00~
場所:くすのき会館レセプションルーム
テーマ:「着床前診断」

演者:児玉正幸先生(鹿屋体育大学体育学部伝統文化・スポーツ文科系教授)
    「日本の着床前診断略史、preembryoとembryo -ヒトの生命の始まり-」
  宮川俊行先生(長崎純心大学現代福祉学科教授)
「着床前診断の問題点-自然法倫理学の視点から-」   
   
コメンテーター:八幡英幸先生(熊本大学教育学部助教授) 
  司会   :田中朋弘先生(熊本大学文学部助教授)

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感想は、次の記事に。

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個人と社会・公共の福祉、自己決定と道徳・倫理#2

予防接種の問題と囚人のジレンマ問題

 社会と個人を考える良い題材として、予防接種がある。現在のワクチンは、副作用は極端に少ないとはいえ、予防接種には、一定の副作用の危険性が伴う。そこで健康な人が、わざわざ接種を受けて、副作用が出現するのなら、その疾患にかかった方がましという考え方も起きる。もちろん、一昔前の天然痘のように、その疾患に罹患する危険性がそれなりに高く、罹患した時の不利益が非常に大きく、ワクチン接種が圧倒的に有利な場合はほとんど問題にはならない。しかし、現在のように、ほとんどの感染症が減少し、ワクチンの必要性が相対的に低くなってくると、さまざまな考え方ができるようになる。
 よく考えてみると、ある個人にとって、もっとも「得な」選択肢は、自分自身は、ワクチン接種を受けず、周囲の全ての人がワクチン接種を受けることである。その結果、自分の周囲には、その疾患が流行する危険性はなくなるため、感染を受けることはなく、もちろん、ワクチンの副作用を蒙ることもない。だから、「得になる選択肢」は、「他人には接種を勧めて、自分は接種しない」ということになる。
 しかし、これは、明らかに非倫理的な行動だ。一個人にとって、有利な選択肢が、社会の中では、非倫理的とされる好例だと思う。
 さらに、集団発生を防ぐためには、一定の割合の接種率が必要である。たとえば、このような行動を非倫理的と知りつつも行った場合、自分と同じように、非倫理的な行動(他人に勧めて、自分は接種しない)を取る人が、一定の割合を超えた場合、大流行が発生して、接種していない人たちが、不利になる状況が起きうる。この状況は、まさに囚人のジレンマ問題と似ている。
 このようなことを考えると、ワクチンについては、ある程度、社会として一定の態度を取ること・・・つまり、全員に接種を強く要請するか、完全に自由にして推奨を一切しないか・・・が、社会倫理を保つためには、重要だと考えることもできよう。
 ただし、これは、麻疹ワクチンを念頭に置いた話で、当然、個々のワクチンによって状況は異なる。最近、話題になっている日本脳炎ワクチンの場合、人-人感染がないとされているため、隣人が接種しているかどうかは関係ないからだ。

囚人のジレンマ問題については、下記を参照。

http://www.ffortune.net/spirit/sinri/prisoner-dilemma.htm
http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Jouhou/95/Takahasi/prisoner.html

囚人のジレンマというのは次のようなケースです。

何かの重大事件で二人組の犯人が捕まった。それぞれ別室で取り調べを受け
ている。この時、Aは迷う。自白すれば、かなり長い刑期が待っていそう。
なんとかごまかしてシラを切り通すことはできないだろうか。しかし自分が
犯行を否認している間にBの奴が自白し、自分も共犯であると言ったら自分
の心証が悪くなる。それよりは先に自白して、反省の念を示し、情状酌量さ
れる道を模索したほうが良いのではないか。しかし向こうも頑張っているの
に自分が罪を認めてしまうと、もしかしたら証拠不十分で釈放される道を
自らつぶしてしまうかも知れない。

当然Bの方も同じように悩み、この精神的圧迫から結局両者とも崩れていき
自白に至ってしまいます。このように自分と相手の行動の組合せで良いこと
と悪いことが極端に転換するケースを「囚人のジレンマ」といいます。

上記の場合では

 ・自分が頑張って相手も頑張ればとても良いことがある。
 ・自分が頑張って相手が挫折すると、こちらが手痛い目に遭う。
 ・自分が挫折して相手が頑張っていたら良いことを逃す。
 ・自分が挫折して相手も挫折したら、あまり好ましくない方向に行く。

といったものです。少し書き直すと

 ・自分が頑張り続けた場合
   相手も頑張ってくれたらとても良いが、
   相手が挫折すると、とても悪い。

 ・自分が挫折した場合
   相手が頑張っていたら、けっこう悪い
   相手が挫折していたら、まぁまぁ。

つまり 100点か0点になる道を選ぶべきか、70点か30点になる道を選ぶべきか
相手の行動によって自分の行動の意味が逆転してしまうのが苦しい所です。
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個人と社会・公共の福祉、自己決定と道徳・倫理#1

「道徳的に良いこと」とは何か?
「道徳的に良いこと」を、私たちはするべきか?について

まず、ここでは、道徳は個人レベルの行動規範という意味である。
「道徳的に良い」ということは、どういうことだろうか?たとえば、困っている人がいて、助けてあげることは、「道徳的に良いこと」で、もし、それが、「自分がしたいこと」と同じなら、何の問題もない。病気で困っている人を、医者が自分の専門知識を用いて治療することは、医者自身の「意思・希望」と、「道徳的に良いこと」が一致しているから、問題は起きない。
とすると、「道徳的に良い」かどうかが問題になるのは、「自分がしたいこと」と、「道徳的に良いとされていること」が、相反する場合である。
たとえば、咽喉が乾いている時に、目の前に、水があれば、それを飲みたいと思うのは当然だが、それが、他人のものだった場合に、盗んで飲むことは、道徳に反するため、解決(選択)すべき問題が生じる。特に、本当に咽喉が乾いて仕方ない場合、あるいは、飲まないと自分の命にも危険が迫る場合など、さまざまなケースがあるだろう。
医療の現場に限らず、一般的に、犯罪や事故が起きた時に、被害者は、加害者を憎むこともあろう。しかし、故意で起きた場合でなければ、加害者も悲惨な立場に立つことはあるし、たとえ故意でも、情状を酌量すべき状況もある。
このようなケースでは、被害者は、なるべく加害者に対して寛容になり、加害者は、できる限り被害者に対して謝罪の気持ちを持つことが、「道徳的には良いこと」だろう。
また、社会との関係の中では、「最大多数の最大幸福を目指す」という功利主義的な視点でも、それが良い方向だと思われる。なぜなら、犯罪は、それなりに多く起きるとはいえ、過半数の人が日常的に経験するようなものではなく、「当事者」は、マイノリティ、あるいは、「例外」として扱われる方が、良いからである。(この部分は、この説明は、不十分だが、本稿ではここまで・・・)
しかし、これが、「道徳的に良いこと」であり「普通は自分でしたいことではない」以上、実際に、このような態度を取ることは難しい。理性では理解できていても、感情では許せない、ということになる。多くの場合、直接の被害者と加害者の間には、深いコミュニケーションを築くことは、非常に難しい。

では、当事者ではない、第3者の人間には、このような状況で、いったい何ができるのだろうか?あるいは、どう考え、どうふるまったら良いのだろうか?
もちろん、一般論として、「道徳的に良い」ことを議論することは可能である。しかし、このような状況で、もう少し個別に、第3者が、被害者に対しても、加害者に対しても、いきなり「道徳的には、こうあるべきだ」という態度を取ることは、とても受け入れ難いだろう。そのような態度を取れば、この第3者との間にも、コミュニケーションは、築かれないだろう。
まず、当事者の状況・感情を理解し、それに共感し、一定の信頼関係が結べた後でなければ、「道徳的に良い」と思われることを伝えることはできないと考える。

このことは、実は、生命倫理・医療倫理の分野でも、同じである。
たとえば、前項に書いた、出生前診断の現場で、臨床医は、自分自身の道徳観によらず、肯定・否定のいずれの立場も、きっぱりとは取りにくい。一般論として語る場合の「倫理」と、個別の「状況」は、異なる。
結局は、もともとは単なる第3者である医師は、患者の問題に共感を持ちながら、一緒に逡巡をし続けるのが、もっとも「良いやり方」なんだろうと思う。

私が何事に対しても、一定の立場を明確に取ることを躊躇する理由の一つである。

(本稿は、7月15日時点では、まだ草稿です。)

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